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校長メッセージ

聖ドミニコ学院小学校
校長

土井 智子

聖ドミニコ学院小学校 校長 土井 智子

見えた時 2024年12月

日が短くなり、5時を過ぎると辺りは暗くなり夜の訪れを伝えます。帰りのバスを待っていた時、ふと空を見上げました。冬の空は空気が澄んでいるから星が見やすいと、小学校の理科の授業で取り上げられていたことを思い出し、「星は出ているのかな」とじっと見ていると、それまで見えなかった星が瞬いていることに気付きました。目を凝らしてほかにも星が輝いているのではないかと探していると、二つ目、三つ目の星を見つけることができました。星は探す前からあったのに、探すまで見えなかったことになります。有るのに見えない、見ようとしないと見えないとは、まさにこういうことだと実感した瞬間でした。
以前、卒業生が冗談のようにこぼした愚痴ともいえない話がありました。
「例えば部屋でも道路でもゴミが落ちていたとしますね。見なければいいのですが、目に入る時ってありますよね?放っておこうと通り過ぎても、気づいてしまった以上戻って拾ってごみ箱に捨てないわけにはいかないんです。気付いたら、正しいと思うことを実行しなさいって、小学校でしつこく指導されていたからか、気づかないふりができないんですよね。そして、よせばいいのに色々と気付いたことはそのままにしておけないタイプになってしまったんです。」
笑いながら話していましたが、その内容は心に残るものでした。気付いたら、もうそのままにしておけないということは、人生を誠実に生きる上で大切な道しるべになっているように思えたからです。

「見えないのは、見ようとしていないから」という言葉はよく耳にします。「見ようとしない」のは実際のところ気付かないでいることが多いからとも言えます。助言や書物などの情報を得て、これまで気付かなかったことに気付くことがあります。「見えてくる」というのは学びの瞬間ととらえることもできます。「そうだったのか」と気付いて辺りを見回すと、それまで見えていなかったものが見えてくるのは面白いところです。また、「見える」ことは責任を伴うこととも言えます。見えた以上、それはなかったことにはできないし、気付いた以上自分自身の問題として捉えなければならないことは多々あります。例えばそれは生活上の細々とした問題であったり、地域の課題であったり、環境の問題であったりします。子供の社会にも大人の社会にも、気付いて解決しなければならない問題があります。「自分は分かっている。理解しているはずだ」そういう思い込みによって、実は真実が見えなくなっていることがあるでしょう。様々な事柄に対して謙虚に耳を傾け、物事の本質をしっかりと見ていこうという決意によって気付けることが往々にしてあるというのもまぎれもない事実です。
2000年前のベツレヘムで生まれた神の子イエス・キリスト。神の子が幼子として誕生した事はどんなことを示しているか、心静かに考える時をアドヴェント(待降節)に持つことは、自分の生き方を振り返り新たな一歩を踏み出す絶好の機会になるように思います。

校 長  土井 智子

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